ブラジル

南米大陸のアマゾン流域に広がる大国。1500年以来、長くポルトガル領とされ、砂糖・金・ダイヤモンドなどをへて、コーヒーが主要な産物となっている。1822年に独立を達成。独裁政治などの時代を経て民主化も進み、豊かな資源を背景とした経済的新興国として注目されている。

 ブラジルは南米大陸最大の国土を持つアマゾン川流域の地。広大な熱帯雨林と湿原は、多くのインディオ部族の生活圏であったが、15世紀末からポルトガルの勢力圏となり、16世紀から植民地支配を受けた。そのため、南北アメリカ大陸では唯一、ポルトガル語公用語としている。
ブラジルの意味 なお、ブラジルという地名は、その地に赤色染料の原料となるブレーズ・ウッド(スオウの木、ブラジルボク)が群生していたところから名付けられたという。
・ページ内の見だしリスト(1)ポルトガルによる植民地支配
(2)ブラジルの独立
(3)ブラジル連邦共和国

 

ブラジル(1) ポルトガルの植民地支配
ブラジルは、15世紀末にポルトガルの勢力圏となり、その植民地支配は19世紀初めまで続いた。

 ポルトガルは1494年のトルデシリャス条約で西経46度30分の子午線から東側の陸地について、もしそこに陸地があれば、ポルトガル領とするという権利を得ていたが、その時点ではまだブラジルは発見されていなかった。1500年4月22日、インドを目指していたポルトガルのカブラルは、大西洋上で東風に煽られ、西に流された結果、偶然ブラジルの地に到達した。カブラルはこの地が大陸の一部であるとは考えなかったが、結局ブラジルがポルトガル領になる根拠となった。
 なお、アメリゴ=ヴェスプッチの第2回航海で1499年にブラジルに到達したと主張しているが、ブラジルの公式見解とはされていない。それは、このときアメリゴの乗った船団を派遣したのはスペインだったので、トルデシリャス条約の境界線の東側を領有することが認められないからである。なお、アメリゴ自身は1501年に今度はポルトガル船に乗り込み、ブラジルに到達、上陸して探検し、この地が新大陸であることを確信した。後にブラジルも含み新大陸はアメリカ大陸といわれるようになった。ブラジルの歴史の三区分

 ポルトガルの植民地としてのブラジルでは当初はインディオを奴隷化して砂糖農園である砂糖プランテーション経営したが、次第にアフリカからの黒人奴隷労働に依存するようになり、17世紀なかばまで世界最大の砂糖産地となった。1690年代に金・ダイヤモンドが発見され、西欧からの入植者が急増、砂糖に代わる産業となった。1822年にポルトガルから独立したが支配権はポルトガル系白人が握り、金・ダイヤモンド資源が枯渇してからはコーヒーの単一栽培を行い、利益を上げた。このように、ポルトガルの歴史は、次の三期に分けることができる。
砂糖の時代 ポルトガル植民地としてのブラジルの歴史では、16世紀半ばから17世紀半ばにかけてを「砂糖の時代」という。ポルトガルは砂糖(原料はサトウキビ)生産の大農園(ブラジルではエンジェーニョと呼ばれた)をつくり、輸出用の単一の商品作物を生産するようになった。これが砂糖プランテーションの最初のものである。
黒人奴隷制度導入 砂糖プランテーションでは始めはインディオを奴隷として労働力としていたが、1570年代から本格的にアフリカのギニア地方やアンゴラなどから黒人奴隷を大量に導入するようになった。ここでの黒人奴隷労働は、非常に悲惨なものがあったことで知られている。またポルトガル人農園主は黒人奴隷女性の多くと姓関係を結んだので、多くの混血児、特に白人と黒人の混血であるムラートが生まれた。
 1580年、ポルトガルはスペインによる併合され、衰退が明らかになると、代わってオランダ(ネーデルラント連邦共和国)が進出、1621年にはオランダ西インド会社を設立して、ポルトガル権益を盛んに浸食しはじめた。
 砂糖はその後も植民地ブラジルの経済を支えたが、やがてキューバなどカリブ海域にその生産の中心が移り、ブラジルの砂糖生産は衰えた。
金の時代 次の17世紀末からの18世紀末まで百年間は「金の時代」という。これは1690年代に内陸のミナスジェライスで金鉱脈が発見され、さらにダイヤモンドも産出することが判明して、ブラジル版ゴールド=ラッシュが起こった。これを機に多数のポルトガル人がブラジル奥地の開拓に向かい、トルデシリャス条約の境界を越えてブラジルの領土は拡大することとなり、1750年にはその条約は廃棄された。ブラジル産の金は18世紀の半ばには世界の総生産量の85%を占め、リオ=デ=ジャネイロは、金の積出港として繁栄した。
参考 メシュエン条約 ところでこのブラジルの金はどこへ行ったか。残念ながらブラジルを富ますことはなかった。それは本国ポルトガルを経てヨーロッパにもたらされたが、18世紀には直接イギリスに流れ込むようになった。そのからくりは、1703年12月にイギリスとポルトガルの間で締結されたメシュエン条約(メスエン条約)であった。これはイギリスがポルトガルの独立を保障するかわりに、イギリス産毛織物市場として有利な条件で貿易協定を結んだものであるが、ポルトガル領のブラジルにとっても次のような関わりがあった。(引用)しかし、メスエン条約はそれ以上の意義をもった。それはイギリス商人が、ポルトガル商人と対等の立場でブラジル市場にアクセスすることを可能にしたからである。ここにイギリス商人は、豊富な資金と優れた製品とによってポルトガル=ブラジル貿易を支配することとなったのである。それにはとくにブラジル鉱山業の勃興と軌を一にするというタイミングのよさも働いた。イギリス商人は金による貿易決済を要求したから、ブラジル産金の75%がイングランドに流れ込んだといわれる。<池本幸三/布留川正博/下山晃『近代世界と奴隷制―大西洋システムの中で』1995 人文書院 p.26>
イギリスはこのブラジルから金を獲得し、1713年のユトレヒト条約でスペイン領アメリカ市場にも参入できることになってメキシコ・ジャマイカでの取り引きでスペイン正貨の銀を獲得、その富によって18世紀後半の産業革命が可能となったのだった。
コーヒーの時代 19世紀にはいり、1822年にポルトガルからの独立を達成するが、そのころ金、ダイヤモンドともに資源が枯渇し急速に産額が減少し、代わって導入されたのがコーヒーであった。19世紀のブラジルは「コーヒーの時代」と言うことができる<国本伊代『概説ラテンアメリカ史』p.19>。
最後の黒人奴隷解放 このコーヒープランテーションでも黒人奴隷制は続けられていたが、ヨーロッパ各国で次第に黒人奴隷制奴隷貿易に対する批判が強まり、アメリカ合衆国で1865年に奴隷解放宣言が出されたことで中南米諸国でも奴隷解放の動きが続いた。しかし、ブラジルで黒人奴隷制度が廃止されたのは1888年のことであり、それは世界で最も遅い解放だった。

先住民アボリジニ

広大な敷地を誇るオーストラリアには、「アボリジニ」と呼ばれる独自の文化を形成してきた先住民族がいます。アボリジニは数万年前からオーストラリアに定住している民族で、自然との調和を重んじる文化や芸術は講話や壁画により現代に受け継がれています。このページではオーストラリアの先住民族アボリジニが歩んできた歴史や文化について解説します。

オーストラリアの先住民、アボリジニとは
アボリジニとは古代からオーストラリアに定住している先住民族です。そのルーツは約5万年前までさかのぼり、第4氷河期中頃にアジア方面から移動してきた民族が起源とされています。“アボリジニ”の語源はラテン語の“ab origine”で、「始めから」という意味を表します。アボリジニは主にオーストラリアの先住民を指しますが、地域や部族により言語や生活習慣が異なります。オーストラリアに居住するアボリジニは国内本土やタスマニア州の民族とクイーンズランド州トレス海峡諸島の先住民に分かれます。トレス海峡諸島の先住民はクイーンズランド州のケープ・ヨークからパプアニューギニアにわたり居住し、オセアニア地域の民族と多くの類似性がみられます。
アボリジニトレス海峡諸島の先住民にはそれぞれオーストラリア政府から認められた民族旗があり、法的かつ政治的な面で特別な地位を築いてきました。
現在、アボリジニトレス海峡諸島に居住する先住民は、オーストラリア全土における人口の約4%を占めています。

アボリジニの世界観
アボリジニの文化は家族や土地との強い結びつきを特長とし、世界観の中心に土着信仰や自然神を敬う姿勢が強くあります。乾燥地域に住む人々はデザート・ピープル(砂漠の人)、海岸地域の人々はソルトウォーター・ピープル(海の人)、河川流域の人々はフレッシュウォーター・ピープル(淡水の人)と呼ばれ、独自の文化を築いてきました。
アボリジニの人々は信仰心が強く、「祖先の魂は大地と空から誕生し、祖先は偉大なる創造主である。祖先の旅を通して、すべての生命が創造された」との教えを根底に持ちます。このことから、祖先・土地・人類の間には強い結びつきがあり、各々の存在を共同体の一部として認めあう考えを重視しています。アボリジニにはドリームタイム(Dream time)と呼ばれる独自の継承文化があり、天地創造の神話を長年にわたり語り継いできました。 ドリームタイムには大きく分けて三つの時代があり、天地や生物が存在しない「始まりの時代」、神や精霊が活躍する「創造の時代」、歴史や生活の知恵を伝える「伝承の時代」に分類されます。
ドリームタイムのドリーム(Dream)は「夢」を指しているのではなく、「生活を送る・旅をして回る」という意味を表しています。アボリジニの宗教文化には「輪廻転生」の思想が強くあり、旅をすることで地面に足跡が残るのと同様に、肉体が滅びても人々のエネルギーやスピリットがその土地に宿るとされています。

 

氷河期

氷河時代(ひょうがじだい、英語: ice age)は、地球の気候が寒冷化し、地表と大気の温度が長期にわたって低下する期間で、極地の大陸氷床や高山域の氷河群が存在し、または拡大する時代である。氷河学では北半球と南半球の両方において広大な氷床が存在することを示す[2][3]。

氷期最盛期の地球の氷河時代の想像図[1]
長期に及ぶ氷河時代のうち、律動する個々の寒冷な気候の期間は氷期と呼ばれ、氷期氷期の間の断続的な温暖期は間氷期と呼ばれる。

最後の氷河時代は約260万年前の更新世に始まり、第四紀氷河時代という。それは今もグリーンランド(英語版)、北極、そして南極大陸に氷床が存在していることからいえる[4][5]。

オーストラリア

オーストラリア大陸には、約6万年前から先住民アボリジニが居住していたといわれている。氷河期時代に東南アジアから移住してきたとされる先住民アボリジニは、独自の文化や生活を営んできた。18世紀ころにヨーロッパ人の移住が始まり、植民地としての歴史を歩むことになる。そして連邦政府が成立し、「国家」が誕生。以来、移民を受け入れながら多民族・多文化国家を形成し、「国家」としての発展を続けている。

 

ヨーロッパ人との出会い
 
最初にオーストラリア大陸接触したヨーロッパ人はポルトガル人で、1520年代に大陸東部を探検したとされる。当時はヨーロッパで珍重された香辛料などを求める大航海時代だったが、オーストラリアには価値ある産物を見出すことができず、それほど注目を浴びることはなかった。

1606年には、スペイン人のトレスがオーストラリアとパプア・ニューギニアの間の海峡、現トレス海峡を航海。オランダの探検家はタスマニア島を発見し、オーストラリア大陸の北と西の海岸線を地図に起こした。1688年にはイギリス人探検家ウイリアム・ダンピアが、北西海岸に上陸。そして、1770年にはキャプテン・クックエンデバー号で東海岸に上陸し、イギリス領として宣言した。

ヨーロッパ人の入植
 
1770年4月、シドニー湾岸近くに上陸したキャプテン・クックはさまざまな植物を採取し、植物(Botany)にちなんで上陸地をボタニー湾命名独立戦争によって、アメリカの流刑地を失ったイギリスは、これに替わる新しい流刑植民地をオーストラリアに求めた。

1788年1月には、後にニュー・サウス・ウェールズ州の初代総督になったアーサー・フィリップ率いる11隻の第一船団が、シドニーボタニー湾に到着。さらに数キロ北上したポート・ジャクソンに植民地を建設し、その後、大都市シドニーに発展した。ボタニー湾に上陸した1月26日は、現在もオーストラリア・デーとして祝日となっている。

その後、約80年間で、イギリスから約16万人の囚人がオーストラリア大陸に渡った。一般の植民者は囚人よりもはるかに多く、羊毛産業と19世紀半ばのゴールド・ラッシュで植民に拍車がかかった。

植民地時代
 
1700年代後半に東海岸から始まった植民地化は徐々に西へ移行し、1829年には西オーストラリアも正式にイギリスの領有と宣言された。その後、流刑者ではなく純粋な開拓民による植民地移住が認められ、1836年にはマレー川河口に南オーストラリア植民地が誕生した。

各地に建設された植民地が成熟するにつれ、イギリスとの関係も変化していった。すでに羊毛業や鉄鉱石の採掘などで経済が安定し、各植民地が独自の発展を遂げていたからである。そこでイギリス政府は各植民地に、イギリス式の憲法や議会制度を導入し、自治権を与えていった。

19世紀半ばにバサーストで発見された砂金をきっかけに、ゴールド・ラッシュが始まる。オーストラリアには、世界各地から一攫千金を夢見る移民が押しかけ、人口は1850年の40万人から1860年には114万人と急増。

また、さまざまな文化・技能などが流入した。ゴールド・ラッシュで急激に人口が増えたことから一時混乱したが、各植民地は政治、経済とも安定を取り戻していく。それに伴い、貿易や国防の面などから植民地間の統一気運が高まってきた。一極集中の中央政権ではなく、各植民地が独自の自治権を発揮できる連邦制への道を探ることになる。


建国以後
国家の誕生
 
1891年、シドニー連邦政府結成のための会議が初めて開かれた。現在の州の核となる6つの植民地が集まって、さまざまな問題解決を図り、議論を重ねていった。10年の歳月をかけて、国家の機軸となる憲法草案をまとめ、それをイギリス政府が承認。1901年に「オーストラリア連邦」が誕生した。

誕生当初は6州だったが、その後、北部地域(ノーザン・テリトリー)が自治を認められて準州になり、首都特別地域も制定された。
首都の建設はシドニーと当時臨時首都であったメルボルンの間とされ、ニュー・サウス・ウェールズ州内に首都機能を建築する目的で制定されたのが首都特別地域。連邦政府の中枢機関を集結させるために、1927年に計画都市として首都キャンベラが建設された。

第一次世界大戦への参加
 
連邦国家が成立して間もなくの1914年、イギリスがドイツに宣戦布告をし、第一次世界大戦が勃発。イギリスと深い関係を持つオーストラリアも参戦することになる。ニュージーランド軍とともに結成されたアンザック軍団には、オーストラリアから約40万人が出征し、約6万人が帰らぬ人となった。大きな犠牲を払ったオーストラリアは、この後、国際連盟への加入が認められ、国際社会での地位を確立していった。

第二次世界大戦への参加
 
第一次世界大戦後の混沌とした社会情勢が落ち着きを見せ始めたころ、今度は第二次世界大戦が始まった。オーストラリアは連合軍の勝利に貢献したが、日本軍から本土を襲撃された。
ノーザン・テリトリーダーウィン、西オーストラリアのブルームは空襲を受け、シドニーやニュー・キャッスルは外洋から砲撃を浴びた。

シドニー郊外のカウラには、日本兵の捕虜が捨て身の大脱走を行い多くの兵士が命を落とした痛ましい歴史がある。戦後、市民や生存者の尽力で、海外で初めての日本人戦没者墓地や日本庭園、世界平和の鐘などがカウラに整備された。今では日豪友好を象徴する街になっており、地元ボランティアの手で日本兵の墓地などが手厚く守られている。

戦後の復興と多民族国家
 
第二次世界大戦終結すると、オーストラリアは好景気を迎えた。小麦や羊毛などの第一次産業の好調に加え、鉄鉱石などの資源、製造業でも業績を上げていった。1950年代は、鉱物資源の開発や水力発電事業など、国家的なプロジェクトが行われた。また、社会保障の拡充と通信の発達は目覚しく、この時期にテレビも登場した。

スポーツ分野でもオーストラリアは注目された。1956年、南半球で初めてのオリンピックがメルボルンで開催され、国際的に知名度がアップした。

1960年代に入ってくると、イギリスの影響が弱まり、アメリカやアジアなど、広く世界と関わりを持つようになってきた。戦後、移民政策がさらに推進され、さまざまな国の出身者が移住してきた。先住民や移民を含めて、すべての国民が平等であることを政府が公約。現在では、多民族によるユニークな文化を形成する国家となっている。

 

ドイモイ政策

ベトナムは、ベトナム戦争終結した頃は、まだ貧しい国でした。カンボジア内戦ではポル・ポト政権を倒すため、1979年にカンボジアに侵攻し、さらに同年に中越戦争がおきるなど戦争が続き、国民は疲弊していました。

南北統一後、社会主義国建設を目指しましたが、国がモノの売買を決める、政府主導の計画経済の導入により経済は低迷し、戦争の影響も加わり国民生活は困窮を極めていました。食料は配給制であり、国民は食料を手に入れるために決められた日に指定された場所で待たなければなりませんでした。 このように平等を目標とする共産主義は、歴史を振り返ると、個人間または企業間で自由に競争ができないため、経済発展がしにくいという側面があったといえるでしょう。

そこで政府は、社会主義体制が国の発展の妨げになっているとの考えのもと、1986年に開かれたベトナム共産党大会で、刷新政策を打ち出したのです。 これが「ドイモイ政策」と呼ばれるものです。ドイモイとは直訳すると「新しいものに換える」、日本においては「刷新」と表現されます。

政策が始まった最初の5~6年は、ベトナムドンの通貨価値が下がるインフレになり厳しい時期もありましたが、 1990年代初め頃から経済の安定と成長に成果が少しずつ現れてきました。

ドイモイ政策の内容と成果

ドイモイ政策では、市場経済への移行、社会主義政策の緩和、国際経済協力への積極的な参入などが提唱されました。中でも市場経済の導入は大きな方向転換となりました。社会主義経済に、お金でモノが買える市場経済を取り入れる政策で、経済活動に活気が出てきました。これまで禁止されていた個人営業が奨励されるようになり、私企業や私有財産が認められ、国民は働けば働くほど生活が豊かになり、勤労意欲が増してきました。ドイモイ政策により、国民の意識も大きく変わり、金銭的価値観が一変してきたのです。

遅れていた工業も発展し、農業の生産高も飛躍的に上昇しました。コメでいうと、ベトナムは海外からの輸入に依存していましたが、1989年には、一転して、輸入国から世界3位のコメ輸出国と大きく進化しました。

また、社会主義政策の緩和を実施したことで、1995年にベトナムASEAN加盟を果たしました。反共産主義国の性格をもつASEAN諸国では、社会主義国であるベトナムの加入が許されなかったのです。しかし、国際社会への貢献をかかげて、ドイモイ政策で社会主義政策を緩和してきたことで、ようやくASEANの一員となることができました。

さらに、海外資本の投資も受け入れ、積極的な対外開放政策をとるようになり、1988年には外国投資法を公布し、外国資本の企業がベトナムで活動できるようになりました。

このようにドイモイ政策を施行したことで、政策の発表直前のインフレ率は年率700%を超えていましたが、1993年には1桁台に落ち着きました。GDPは2000年から2010年の10年間で倍増し、ドイモイ政策は軌道に乗ってきました。現在も政策は継続しており、2018年のGDP成長率は7.1%という高い記録を残しています。

ドイモイ政策の現状と今後の展望

ドイモイ政策が導入されてから約30年が経過しましたが、平均月収は10年間で3倍に増加、中間所得層の割合が10年で約2倍の48%まで成長しました。 現在の取り組みとして引き続きベトナム政府はさらなる近代工業国家を目指して、高い経済成長を目標とする方針を掲げています。

今後も経済発展を継続させていくには、課題として、人口ボーナス期がまもなく終了することも挙げられます。現在のベトナムは人口ボーナス期であり、生産人口の増加が経済発展に良い面をもたらしていますが、人口ボーナス期が終わる時期を見据えて、経済構造の変革が求められています。

ベトナム

統治国家時代(2世紀から15世紀)
ベトナムは長い間、中国の占領下でした。その歴史を変えた重要な王朝は、リー王朝、チャン王朝、ル王朝、グエン王朝の4つです。まず最初に、リー王朝は中国人を追い出し、千年にわたる支配を終わらせ、ハノイに中央集権的な政府を設立しました。次のチャン王朝では、チャン・フン・ダオ将軍の指揮下で、紅河デルタにおけるモンゴルの襲撃を撃退しました。これら2つの王朝は、その後長く続くベトナムの歴史の基盤を築きました。

 

ル王朝の南への勢力拡大(15世紀から17世紀)
15世紀になると、中国は再びベトナムに侵攻しましたが、占領は以前のように長くは続きませんでした。裕福な地主だったル・ロイは、抵抗軍を率いてベトナムを取り返しました。これによりル王朝が設立され、南への勢力拡大に成功し、旧チャンパ王国を支配しました。チャンパ王国を統治していたチャム族はインド半島の民族であり、2世紀からベトナム中部および南部で暮らしていました。商業において発展した強力な王国でしたが、ル王朝に敗北し、メコンデルタの奥深くに追いやられました。

 

最後の王朝(19世紀)
ベトナム最後の王朝であるグエン王朝は、ベトナムで内戦が勃発する最中に誕生しました。ジャ・ロン皇帝の指導の下、国は再生し、1802年にジャ・ロンはベトナム中部のフエ市に新しい封建的な首都を建設しました。グエン皇帝の統治中、ベトナムにおけるフランスの影響は、宗教改革福音主義の口実の下で次第に大きくなりました。最終的にはフランスはベトナム全土の支配権を確立し、近隣のラオスカンボジアと共にベトナム中部および北部地域を征服しました。これにより、グエン王朝最後の皇帝バオ・ダイは正式に王位を退位しました。

 

フランス植民地時代(19世紀後半から20世紀初頭)
フランスに植民地化されている間、ベトナムはトンキン、アンナム、コチンチンの3つに分割されました。ベトナム人の間ではフランスによる支配への抵抗心が強まり、多くの著名なベトナム人作家がベトナムの連帯と植民地支配からの自由を求める作品を発表しました。これらの動きは一時鎮圧されてしまいましたが、人々の心の中には変わらず残っていました。フランス人による大規模な逮捕が行われたにも関わらず、多くのベトナム民主主義者は投獄を恐れずその思想を広め、将来のために活躍しました。

 

独立への侵略(20世紀前半)
フランスがドイツに占領された時、日本はベトナムへの侵攻を図りました。これにより、1940年に日本軍がハノイを支配しました。その1年後、日本軍はベトナムの抵抗軍を後押しし、共産主義者と民主主義者を団結させ、そのリーダーとなったホーチミンはベトミンを結成してハノイから南下しました。ベトミンによって日本軍のベトナムへの影響力は1945年頃には弱くなり、同年日本は連合国軍に降伏し、ホーチミンハノイのバーディン広場において独立国家を宣言しました。

 

インドシナ戦争と再統一(20世紀半ば)
フランスによる植民地支配に対する抵抗心は、1946年にインドシナ戦争が始まった時に再燃しました。この戦争は、ディエンビエンフーの戦いで大敗するまで続きました。停戦が調印された後、ベトナムは17の地域に分裂し、後に世界的に注目を集める戦争の舞台となりました。アメリカが徐々に南ベトナムへ侵攻してきたのです。北ベトナムはそれに対抗するため、軍隊を送り込みました。テト攻勢により北ベトナム軍が有利な戦況となり、1975年4月30日に北ベトナム軍が南ベトナムの都市を占領したため、最終的にアメリカ軍はサイゴンから撤退しました。

 

ドイモイ、そしてベトナムの今(20世紀後半から現在)
第二次インドシナ戦争の後、国は調整と再統一の期間を経ました。 1986年、ベトナム政府は「ドイモイ」(刷新)政策を全国に導入しました。この改革により、ますます多くのベトナム人が新規事業を始めたため、徐々に経済成長をもたらしました。また最近では、ベトナムは開発ブームを迎えており、近隣諸国の中で最も急速に経済が成長している国の1つです。国が提供するものは、歴史的魅力とその過去への深い感謝の感覚を備えた、古いものと新しいものの魅力的な組み合わせです。

 

 

 

マレーシア

マレーシアって、どんな国?
東南アジアの中心に位置する「多民族・多文化国家」
東南アジアの中心に位置するアジアの玄関口、マレーシア。マレー半島とボルネオ半島の一部にまたがり、13の州と3つの連邦特別区から成り立っています。人口3,200万人のマレーシアは、マレー系・中国系・インド系、そして多数の先住民族がともに暮らす多民族・多文化社会。それぞれの民族の文化や宗教、言語が共存し、多様性を受け入れてお互いに尊重し合いながら文字通り「グローバル社会」を構成しています。

 

マレーシアの歴史と今
マレーシア成立まで
西暦1400年頃、スマトラ島(現在のインドネシア)を中心としたパレンバンの王族が「マラッカ王国」の建国を宣言したのが始まりと言われています。それ以後は、1509年ヨーロッパからの最初の交易船がマラッカに寄港し、繁栄を極めていた貿易港「マラッカ」がヨーロッパに知られるようになりました。その後ポルトガルが軍艦を連ねてマラッカを侵略し、1511年からは長く続く植民地時代に。ポルトガル植民地時代、オランダ植民地時代、イギリス植民地時代を経て、第二次世界大戦時には日本に占領されました。大戦終了後1963年にマレーシア連邦が成立し、1965年にシンガポールが分離独立して現在のマレーシアとなりました。現在もイギリス連邦に属しているため、イギリスの影響も強く見られます。

 

アジア諸国に学べ!ルック・イースト政策(東方政策)
1981年以後マハティール首相が打ち出したのが、日本や他のアジア諸国の成功に目を向ける”ルック・イースト政策”。この政策は成功し、1988年以降マレーシアは高い経済成長率を維持して東南アジアで先進的な地位を築きました。その後数度の通貨危機に見舞われたものの、自国で石油産出ができる強みを生かし、独自の通貨政策によって切り抜けて現代に至っています。

発展の原動力、ビジョン
1991年、「ビジョン2020」と銘打って30年に渡る展望が示されました。2020年までにあらゆる側面(経済、政治、社会、精神的、心理的、文化)において「先進国の仲間入りをする」ことを宣言したこのスローガンはマレーシア国民の間に広く浸透し、未来への期待を抱かせています。