ブラジル

南米大陸のアマゾン流域に広がる大国。1500年以来、長くポルトガル領とされ、砂糖・金・ダイヤモンドなどをへて、コーヒーが主要な産物となっている。1822年に独立を達成。独裁政治などの時代を経て民主化も進み、豊かな資源を背景とした経済的新興国として注目されている。

 ブラジルは南米大陸最大の国土を持つアマゾン川流域の地。広大な熱帯雨林と湿原は、多くのインディオ部族の生活圏であったが、15世紀末からポルトガルの勢力圏となり、16世紀から植民地支配を受けた。そのため、南北アメリカ大陸では唯一、ポルトガル語公用語としている。
ブラジルの意味 なお、ブラジルという地名は、その地に赤色染料の原料となるブレーズ・ウッド(スオウの木、ブラジルボク)が群生していたところから名付けられたという。
・ページ内の見だしリスト(1)ポルトガルによる植民地支配
(2)ブラジルの独立
(3)ブラジル連邦共和国

 

ブラジル(1) ポルトガルの植民地支配
ブラジルは、15世紀末にポルトガルの勢力圏となり、その植民地支配は19世紀初めまで続いた。

 ポルトガルは1494年のトルデシリャス条約で西経46度30分の子午線から東側の陸地について、もしそこに陸地があれば、ポルトガル領とするという権利を得ていたが、その時点ではまだブラジルは発見されていなかった。1500年4月22日、インドを目指していたポルトガルのカブラルは、大西洋上で東風に煽られ、西に流された結果、偶然ブラジルの地に到達した。カブラルはこの地が大陸の一部であるとは考えなかったが、結局ブラジルがポルトガル領になる根拠となった。
 なお、アメリゴ=ヴェスプッチの第2回航海で1499年にブラジルに到達したと主張しているが、ブラジルの公式見解とはされていない。それは、このときアメリゴの乗った船団を派遣したのはスペインだったので、トルデシリャス条約の境界線の東側を領有することが認められないからである。なお、アメリゴ自身は1501年に今度はポルトガル船に乗り込み、ブラジルに到達、上陸して探検し、この地が新大陸であることを確信した。後にブラジルも含み新大陸はアメリカ大陸といわれるようになった。ブラジルの歴史の三区分

 ポルトガルの植民地としてのブラジルでは当初はインディオを奴隷化して砂糖農園である砂糖プランテーション経営したが、次第にアフリカからの黒人奴隷労働に依存するようになり、17世紀なかばまで世界最大の砂糖産地となった。1690年代に金・ダイヤモンドが発見され、西欧からの入植者が急増、砂糖に代わる産業となった。1822年にポルトガルから独立したが支配権はポルトガル系白人が握り、金・ダイヤモンド資源が枯渇してからはコーヒーの単一栽培を行い、利益を上げた。このように、ポルトガルの歴史は、次の三期に分けることができる。
砂糖の時代 ポルトガル植民地としてのブラジルの歴史では、16世紀半ばから17世紀半ばにかけてを「砂糖の時代」という。ポルトガルは砂糖(原料はサトウキビ)生産の大農園(ブラジルではエンジェーニョと呼ばれた)をつくり、輸出用の単一の商品作物を生産するようになった。これが砂糖プランテーションの最初のものである。
黒人奴隷制度導入 砂糖プランテーションでは始めはインディオを奴隷として労働力としていたが、1570年代から本格的にアフリカのギニア地方やアンゴラなどから黒人奴隷を大量に導入するようになった。ここでの黒人奴隷労働は、非常に悲惨なものがあったことで知られている。またポルトガル人農園主は黒人奴隷女性の多くと姓関係を結んだので、多くの混血児、特に白人と黒人の混血であるムラートが生まれた。
 1580年、ポルトガルはスペインによる併合され、衰退が明らかになると、代わってオランダ(ネーデルラント連邦共和国)が進出、1621年にはオランダ西インド会社を設立して、ポルトガル権益を盛んに浸食しはじめた。
 砂糖はその後も植民地ブラジルの経済を支えたが、やがてキューバなどカリブ海域にその生産の中心が移り、ブラジルの砂糖生産は衰えた。
金の時代 次の17世紀末からの18世紀末まで百年間は「金の時代」という。これは1690年代に内陸のミナスジェライスで金鉱脈が発見され、さらにダイヤモンドも産出することが判明して、ブラジル版ゴールド=ラッシュが起こった。これを機に多数のポルトガル人がブラジル奥地の開拓に向かい、トルデシリャス条約の境界を越えてブラジルの領土は拡大することとなり、1750年にはその条約は廃棄された。ブラジル産の金は18世紀の半ばには世界の総生産量の85%を占め、リオ=デ=ジャネイロは、金の積出港として繁栄した。
参考 メシュエン条約 ところでこのブラジルの金はどこへ行ったか。残念ながらブラジルを富ますことはなかった。それは本国ポルトガルを経てヨーロッパにもたらされたが、18世紀には直接イギリスに流れ込むようになった。そのからくりは、1703年12月にイギリスとポルトガルの間で締結されたメシュエン条約(メスエン条約)であった。これはイギリスがポルトガルの独立を保障するかわりに、イギリス産毛織物市場として有利な条件で貿易協定を結んだものであるが、ポルトガル領のブラジルにとっても次のような関わりがあった。(引用)しかし、メスエン条約はそれ以上の意義をもった。それはイギリス商人が、ポルトガル商人と対等の立場でブラジル市場にアクセスすることを可能にしたからである。ここにイギリス商人は、豊富な資金と優れた製品とによってポルトガル=ブラジル貿易を支配することとなったのである。それにはとくにブラジル鉱山業の勃興と軌を一にするというタイミングのよさも働いた。イギリス商人は金による貿易決済を要求したから、ブラジル産金の75%がイングランドに流れ込んだといわれる。<池本幸三/布留川正博/下山晃『近代世界と奴隷制―大西洋システムの中で』1995 人文書院 p.26>
イギリスはこのブラジルから金を獲得し、1713年のユトレヒト条約でスペイン領アメリカ市場にも参入できることになってメキシコ・ジャマイカでの取り引きでスペイン正貨の銀を獲得、その富によって18世紀後半の産業革命が可能となったのだった。
コーヒーの時代 19世紀にはいり、1822年にポルトガルからの独立を達成するが、そのころ金、ダイヤモンドともに資源が枯渇し急速に産額が減少し、代わって導入されたのがコーヒーであった。19世紀のブラジルは「コーヒーの時代」と言うことができる<国本伊代『概説ラテンアメリカ史』p.19>。
最後の黒人奴隷解放 このコーヒープランテーションでも黒人奴隷制は続けられていたが、ヨーロッパ各国で次第に黒人奴隷制奴隷貿易に対する批判が強まり、アメリカ合衆国で1865年に奴隷解放宣言が出されたことで中南米諸国でも奴隷解放の動きが続いた。しかし、ブラジルで黒人奴隷制度が廃止されたのは1888年のことであり、それは世界で最も遅い解放だった。