シンガポール

海賊だらけの時代
シンガポールという名前がまだついていない14世紀頃までは、この地域には主な産業や、土地も痩せており農業も栄えておらず、海賊を生業としている人々が多く住んでいました。その頃は、トゥマセクという名称でこの地域は呼ばれていたのですが、そこに、スマトラから来た領主「サン・ニラ・ウタマ」が繁栄地を作り、名前をシンガプーラに改めたという説が、シンガポールと呼ばれる由来となった一番の有力な説となっています。

近代シンガポールの父ラッフルズの登場
1819年になると、東インド会社の書記として新たな港の場所を探していたサー・トーマス・スタンフォードラッフルズシンガプーラに上陸しました。そして、アジア周辺へのアクセスの良さからフッフルズはこの地に新たな港を作る事を決めました。その際にシンガプーラという名前を、より英語で呼びやすいシンガポールという名前に変えたのが、現在のシンガポールという国名の由来となっています。

自由港政策の決定
さらにラッフルズは、シンガポールの港を自由港にする政策を決め、無関税の自由港の建設計画を立てました。この無関税の自由港という魅力的な政策により、東南アジア、中国やインドなどの周囲の国の人々がシンガポールに移住を始め、人口・労働力ともに力をつけていきました。

 

日本統治~イギリス統治時代
1940年代の日本統治時代~イギリス統治時代について、簡単に歴史をまとめていきます。

日本軍による統治時代
順調に移民や自由港による貿易で経済発展を伸ばしていたシンガポールですが、世界的な戦争時代へと突入していった1942年に、日本軍により占領され、約3年半の間、シンガポールは日本の統治時代を迎えることになります。その際、シンガポールという名称ではなく沼南島と呼ばれるようになり、自由港であった貿易も停滞していったのでした。

日本の敗戦~イギリス統治時代
1945年になると、日本が敗戦をしてシンガポールはイギリスの植民地へと戻ることになります。さらに物語は早いスピードで進展し、1948年にはマラヤ連邦自治を認め、その後1955年にはシンガポールは部分自治を認められることとなります。

シンガポールの独立~経済発展
シンガポールの独立から現在の経済発展をしていく経過を簡単にまとめていきます。

3つの公用語の指定
部分自治を認められたシンガポールは、完全な独立を勝ち取るため、周辺の各国から移住してくる人々の市民権を認め、市民の大部分を占める中国、マレー、インドの3つのコミュニティを代表して3つの公用語を指定しました。

この3つの公用語である

中国語
マレー語
タミル語
は、現在のシンガポールでも継続して公用語となっており、今のシンガポールの多様な文化の基礎を築いたとも言えます。

シンガポールの独立
そして、1959年にはシンガポールは部分自治から完全自治へと移行し、マレーシア連邦の一つの州に合併を一旦されますが、マレーシア連邦との対立を経て1965年には念願の完全独立を迎えることとなります。

シンガポールの経済発展
その後、シンガポールはアジア各国へのアクセスの良さや、無関税の自由港であった背景から、国際的に貿易・金融市場を大幅に発展させることに成功します。その経済発展のスピードは著しく、独立した1965年からの30年の間、平均で10%の年間の経済成長率を達成していました。

光都市としての成功
貿易・金融の国としてシンガポールは大きな発展を遂げましたが、近年、シンガポールは新たに観光立国としての計画を進めており、国内にセントーサリゾートカジノ、マリーナベイサンズのカジノなど、外資系の巨大資本を入れ、マリーナベイサンズホテルなどの観光客に魅力的なトレードマークを作ることにより、現在進行形の形で観光都市として大きな成功を収めつつあるのです。

インドネシア

インドネシアの歴史
多様な文化を継承し続けるインドネシアが、インドネシア共和国として独立するまでの歴史をご紹介します。

ジャワ原人
1980年、ユージン デュポワ博士によってジャワ原人(ピテカントロプス)の化石が発見され、およそ80万~100万年前には既に人類の祖先が、ここジャワ島に存在していたことが知られています。

紀元前3世紀ころ
モンゴル系のマレー人が中国やベトナム辺りからインドネシアへ移住し始め、その後紀元前1世紀にはインドの貿易商達が大挙してインドネシアへ渡り、ヒンドゥー教文化と仏教文化をもたらしました。

7世紀ころ
ヒンドゥー王国や仏教王国が栄え、壮大な建築物や寺院の多くが建造され、シャイレンドラ王家が建造したボロブドゥールや、ムンドットなど素晴らしい遺跡が今でも残されています。この時代にスマトラにスリウィジャヤ王国が栄え、東南アジアで最も強大な王国として600年間勢力を誇りました。

ボロブドゥール
13世紀
更に強大なヒンドゥー王国マジャパイトが東ジャワで台頭し、その後200年間インドネシア全域とマレー半島の一部を統合。この黄金期の名残はジョグジャカルタ付近のプランバナン寺院群や東ジャワのペナタラン寺院・ディエン高原の遺跡群など、ジャワ島内のいたるところで見ることができます。

更に13世紀にはイスラム教が伝播し、急速にイスラム化が進むと同時に、この豊かな国の存在はヨーロッパにも知られるようになります。

1292年
マルコポーロがヨーロッパ人として初めてジャワに足跡を印し、大航海時代の到来とともに各国の船が次々に来航、1602年にオランダは東インド会社を設立して香料とコーヒーの輸出を独占。オランダの支配は約300年、第2次世界大戦が始まるまで続いたのです。

大戦終了後
オランダが再度の植民地化をはかりましたが、国際的非難を受け、1949年12月27日、オランダは終にインドネシアの主権を認め、インドネシア共和国として正式に独立しました。

 

フィリピン

7,641の島々が点在するフィリピンは、 その島の数だけ伝統や文化も多彩です。スペインやアメリカの影響を強く受けており、 日常生活の中でもそれぞれを象徴する建築物や食べ物などが多く見られます。 歴史や文化などを学んでからフィリピンを巡ると、 旅の楽しみがもっと広がります。


産業
主な産業は農業ですが、 最近ではスービック、クラーク、セブのマクタン輸出加工区やカビテ、ラグナ、バタンガスなどにはPC関連他の工業団地が急増中。ココナツ、アバカ(マニラ麻)、コプラ、タバコ、砂糖が主な農産物。天然資源は鉄、銀、銅、大理石など。この他、木材(主にラワン材)も輸出されており、近海での漁業も盛んです。なお、貿易相手国はいずれも先進国で、日本も主要相手国のひとつになっています。
観光産業も農産物の輸出とともに有力な外貨獲得源になっています。 フィリピンを訪れる観光客は年間650万人以上で、日本人観光客はその約10%です。政府も観光関連事業に力を入れており、国際会議の誘致、 リタイアメント&ロングステイ、英語留学等の誘致にも積極的に取り組んでいます。

 

歴史と文化
フィリピンの歴史は、①スペイン統治以前(1521年以前)、②スペイン統治時代(1521〜1898年)、③アメリカ統治時代(1898〜1945年)、④独立以後(1946年以後)の4つに大別できます。
フィリピンの初期住民といわれるネグリト人が陸橋を使って渡来前に、フィリピンに人がいたという考古学的な証拠が見つかっています。6万7000年前のアジア最古のホモサピエンス、カヤオ人の人骨はフィリピンの「カヤオ洞窟」で出土され、さらにリサール州のビナンゴナンでは紀元前3000年前の岩絵「アンゴノ・ペトログリフ」が発見されています。
ネグリト人に続き、原始マレー系、古マレー系、新マレー系は海を渡ってフィリピンにやってきました。1世紀にはインド、アラブ、東アジア、東南アジアの国々から宗教、言語、文化的な影響を受けながら、小さな海洋国家が点々と全国にできました。また、国家まで至らなかった独立しているバランガイ(村)もたくさんありました。
1521年にマゼランがフィリピンにやってきて、1565年にスペインによる植民地化が始まりました。この植民地化によって、フィリピンは初めて統一されました。300年間以上のスペイン植民地化を経て、今でもその影響がフィリピンでの日常生活で垣間見ることができます。その一つとして、フィリピン人の9割以上はキリスト教であること。また、フィリピノ語の中に「asul(青色)」「bintana (窓)」「 lamesa (テーブル)」のようなスペイン語由来の言葉(azul, ventana, la mesa)が今でもたくさん使われています。また、カリヨス、ガンバス、パエリヤ等のスペイン料理は文化的にもフィリピンに根付いています。
1898年にはスペインーアメリカ戦争が終わり、フィリピンはアメリカの統治下に置かれることになりました。1901年には公共教育が開始され、英語が教育言語として利用されるようになりました。そのため、フィリピンでは今でも英語が公用語として利用されるようになりました。
1946年に独立をしたフィリピンは共和国として、現在に至ります。文化的にもユニークで、ニッパヤシの民家に代表される土着文化を持ち、バロック風のカトリック教会はスペインがもたらしたヨーロッパ文化の象徴であり、近代的な学校校舎はアメリカ文化を代表しています。中でも、約350年のスペイン統治時代の文化と伝統は、言語をはじめ今もなお国民の日常生活に根強く残っています。また、スペイン以前にもたらされたイスラム文化はフィリピン南部独特の風物詩で、ジープニーの極彩色の装飾もイスラム文化の影響を受けたものといわれています。

 

国民性
フィリピン国民の性格は、様々な文化が入り混じったものと言えます。“バヤニハン” として知られる血族や友愛を重んじる心はマレー系の祖先から受け継いだものであり、親密な家族関係は中国人から受け継いでいます。そして、 敬慶な気持ちは16世紀にスペイン人がもたらしたキリスト教の影響を受けたものです。 特にスペインとは長い交流があったため、 フィリピン国民は生き方に関しては、 アジア人というよりもラテン民族と思えるほど感情的かつ情熱的です。また、東南アジアの中で最もフィリピン国民を際立たせているのが“フィリピーノホスピタリティー”(おもてなしの心)。これはほとんどのフィリピン国民の性格に共通したものであり、これがフィリピン人の大きな特徴となっています。

イベリア半島

ヨーロッパの南西端にある半島。 東西約 1100km,南北約 1000kmのほぼ方形をなし,総面積 58 万 1353k㎡。 総面積の 84.7 %をスペインが,15.2 %をポルトガルが,残りを英領ジブラルタルピレネー山脈中のアンドラとが占める。

地中海貿易

11世紀頃からの西ヨーロッパでは都市経済が復活し、遠隔地との交易もさかんになった。ヴェネツィアジェノヴァ、ピサなどのイタリア商人は、ムスリム商人が中心であった地中海の交易に参入するようになった。イタリア商人は、十字軍を支援する形で利益の獲得と勢力の拡大をめざした。イタリア商人は十字軍の武器・食料などの物資輸送を担うとともに、レヴァント(東地中海の沿岸諸地域)のムスリム商人から香辛料などを買い付けて、ヨーロッパにもたらした。
その後、レコンキスタの進展、羅針盤の実用化、船舶の発達、海図などの航海技術の向上は、地中海の商業の担い手や交易地の拡大、交易品の多様化をもたらした。取引された商品は、従来から遠距離交易の対象であったコショウなどの香辛料、宝石・真珠・象牙・毛皮・絹・高級毛織物などの高価で軽量な商品に加えて、ブドウ酒・オリーブ油・小麦・果実・砂糖・塩・羊毛・皮革・綿・ミョウバン・硫黄・タール・鉱石・金属製品・石鹸などの安価で重量のある食料・原料・日常製品が存在した。また軍隊・家庭・農場で働く奴隷がイタリア商人により売買された。

これまで商人は商品をみずから船で運んで売買し、さらにみずからが他の場所もしくは本国に運んでいたが、13世紀末頃からは各地の代理人に通信による指示を出すことで各地で取引を行い、専門の輸送業者に商品を運ばせる形態も出現した。イタリア商人を中心とする西ヨーロッパの商人たちは地中海各地から黒海にかけて代理人を派遣し、カイロのムスリム商人たちはシリア・北アフリカイベリア半島の海岸都市に代理人を派遣して、さかんに貿易を行なった。アレクサンドリアにはヴェネツィアジェノヴァ・ピサ・フィレンツェパレルモなどの商館や領事館が建てられ、多くの商品を買い付けてヨーロッパにもたらしていた。一方で、イタリアなどの商人はエジプトに木材・鉄などの軍事物資を供給していた。

医学・哲学・天文学・数学・光学・化学・地理学などの大量のアラビア語ギリシア語の文献がラテン語に翻訳され、ギリシアの学問と、ギリシアの学問を移入して発展させていたイスラーム世界の学問を西欧世界は初めて学ぶことができた。これがのちのヨーロッパ近代科学発展の基礎となった。

11〜13世紀にヨーロッパの十字軍による戦争が断続的に続きながらも、地中海では商業活動が発展していた。物資の交流のみならず、地中海を経由して、イスラーム世界の知識や技術がヨーロッパにもたらされた。その舞台となったのは、イベリア半島シチリア島であり、10世紀に始まり、12世紀には「大翻訳時代」と呼ばれる学術の興隆をもたらした。


 

 

十字軍運動

11世紀末~13世紀末までのキリスト教世界の膨張運動の一つ。1095年のクレルモン宗教会議で教皇ウルバヌス2世によって提唱され、1096年の第1回から、一般に1270年の第7回までとされる。一時はイェルサレム王国を建てるなど聖地回復に成功したが、結局はイスラーム側の反撃によって失敗した。東方貿易の活発化、イスラーム文化の流入など、中世ヨーロッパ社会を大きく変動させる一因となった。

 

キエフ大公

キエフ大公」と呼ばれる君主が支配し、最盛期はヨーロッパ最大の版図を誇った大国だったと言われています。

その中心的な都市だったのが、今のウクライナの首都キーウ(キエフ)でした。

そもそもキエフ・ルーシの成り立ちは?
キエフ・ルーシを形成したのは東スラブ人です。スラブ人は、ラテン、ゲルマンとともにヨーロッパを構成する三大民族のうちの1つですね。

12世紀に編さんされた『原初年代記』という歴史書の伝説によると、東スラブ人のポリャーネ氏族の3兄弟、キー、シチェク、ホリフとその妹が町をつくって、一番上の兄の名を取ってキーウ(キエフ)と名付けたそうです。これが今のウクライナの首都にもなっているキーウの始まりだとされています。

その後、実質的に国を作ったのは北欧から海を渡ってきたバイキングで、オレフ(ロシア語名オレーグ)という人物が創始者でした。882年にキエフ公となったオレフは首都をキーウに移し、キエフ・ルーシを建国しました。

まず、キエフ大公の「ヴォロディーミル」(在位978~1015・ロシア語名ウラジーミル)は、公国をヨーロッパ最大の版図を持つ国にまで拡大したとされています。キリスト教を国教化したことから「聖公」とも呼ばれるほどです。

また、ヴォロディーミルの息子の「ヤロスラフ」(在位1019~1054)は内政や外交に優れた才能を発揮し「賢公」とも呼ばれた存在です。現在は世界文化遺産にも登録されている聖ソフィア大聖堂を建設しました。

どうして栄えたの?
キエフ・ルーシがヨーロッパ有数の大国となったのは、活発な貿易と商業の発達が関係しています。中世のヨーロッパは圧倒的に農村社会で、王侯や貴族たちは商業を低くみていたのに対し、キエフ・ルーシは商業を重視して富を得ていたと考えられます。

例えば、12世紀までにフランスに運ばれた絹織物は「ルーシ物」と呼ばれるほどで、貿易が盛んでした。これに伴い都市も発達し、領土の全人口の13%から15%ほどが都市に住んでいたと推計されています。

なぜキリスト教を取り入れたの?
かつてキエフ・ルーシはアニミズム的な多神教が支配的だったとされています。しかし、国の規模が大きくなる中、キエフ大公の統治を正当化し結束を強めるのに、一神教は都合がよかったのでしょう。

また、キリスト教国となることで、ビザンツ帝国を中心とした「文明国の共同体」の一員に認められ、ヨーロッパ各国との婚姻政策などの外交面でも役に立っていたと考えられます。

“栄光の国”がなぜ滅んだ?
最終的な要因は、13世紀にユーラシア大陸で猛威を振るっていたモンゴルの侵攻だと言われています。ただそれ以前にキエフ・ルーシは衰退過程に入っていたようです。

まず国の内部で制度が変わり、各地を治める地方の貴族が力を持ち始め、バラバラに動くようになった結果、公国全体の君主「大公」の力は低下していったと考えられます。

またヨーロッパやその周辺の勢力図が外部要因によって変化すると、キーウを通過する交易路の重要性が低下し、国の繁栄をもたらしていた経済の停滞を招いたと推察されます。

モンゴルの侵攻で1240年に首都キーウが陥落すると、キエフ・ルーシは事実上崩壊します。オレフが建国してからおよそ350年後のことでした。

モスクワが力を持ったのはなぜ?
これとは対照的にモスクワは森林地帯で、交易による収入もあまり見込めないことから、比較的モンゴル軍の攻撃を受けにくかったことなどもあり、力を蓄えていきました。

こうしたことがキーウとモスクワの力関係が逆転するターニングポイントになったと考えられます。

キエフ・ルーシは崩壊後はどうなったの?

ウクライナ側がキエフ・ルーシ崩壊後の継承国としているのが「ハーリチ・ヴォルイニ公国」です。

この公国は、キエフ・ルーシ崩壊後も1世紀にわたって現在のウクライナの西部で栄え、今の西部の主要都市のリビウもこのときに町が建設されています。

ウクライナの歴史家の1人は、ハーリチ・ヴォルイニ公国が今のウクライナの人口の9割が住む地域を支配していたとして「最初のウクライナ国家」だとしています。

《ここまでが黒川さんの話です》

プーチン大統領の考えは
では、こうしたキエフ・ルーシの歴史をプーチン大統領はどう考えているのでしょうか?

去年7月の論文では、ロシアとウクライナがともにキエフ・ルーシにルーツを持つとして両国は「兄弟」であり「一つの民族」と主張しています。

この中でプーチン大統領はロシアとウクライナは「精神的、人間的、文化的なつながりは数百年にわたって築き上げられた」として、両国民の一体性を強調しています。その結び付きの始まりこそキエフ・ルーシであり、「ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人は皆、かつてヨーロッパ最大の国家であった古代ルーシの子孫」と述べています。

また論文では、キエフ・ルーシは滅亡後、モスクワを中心とする東側とポーランドリトアニア支配下に置かれた西側に分かれたものの、17世紀に「モスクワが再統一の中心となって国家としての古代ルーシの伝統を受け継ぐことを定めた」とロシア側の正統性を強調しています。

キエフ・ルーシは誰のものか」
一方のウクライナ側はキエフ・ルーシをどう考えているのでしょうか?

黒川さんはこう説明しています。

黒川祐次さん
「さきほど指摘したように、キエフ・ルーシは滅亡後、西ウクライナに栄えたハーリチ・ヴォルイニ公国に継承されたという考えがあります。『最初のウクライナ国家』とも呼ばれるこの公国の系譜が現在のウクライナまでつながるとされています。そのため、ウクライナ側は“自分たちこそキエフ・ルーシの正統な継承者だ”と主張するのです」

「したがって、ウクライナはロシアの一地方などではなく、1000年以上前からの栄光の歴史を引き継ぐ国だと。一方のモスクワはこそキエフ・ルーシの一地方(東北地方)に過ぎず、民族も言語も違い、ロシア帝国ソビエト連邦に至っては非常に強い中央集権制でそのシステムは全く異なる、というのがウクライナ側の歴史の考え方ですね」
プーチン大統領の主張には、他の歴史研究者からも疑問の声もあがっています。


ウクライナ史に詳しい神戸学院大学の岡部芳彦教授は「ウクライナ側から見れば、ロシアのキエフ・ルーシ起源説は16世紀のモスクワ・ツァーリ国のイヴァン雷帝の頃に唱えられ始めたことで、その論理はいわば“後付け”です。ウクライナの歴史家が指摘するように、ロシアの起源はキエフ・ルーシまでさかのぼるよりも、むしろ13世紀後半以降に成立したモスクワ大公国が拡大してできたと思われる」と説明します。

そのうえで岡部教授は「ウクライナからみると“ロシアがルーシの名前を盗んだ”というんです。プーチン大統領は“キエフ・ルーシは自分たちの歴史だから自分たちのものだ、だから起源を取り返せ”というわけですが、それは起源の論争が侵略と拡大の理屈に使われているわけです。ウクライナ側からすると全く逆の解釈ですので、当然受け入れられないということになります」と話しています。

キエフ・ルーシは誰のものか」

1000年前の国に起源を求める歴史論争は、今もまだ現実の政治の中に影を落としているようです。